読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

●教員とは、”わかっている人”のことではない。

教育観


こんにちは、開智望小学校準備室広報担当の野口です。
いつも開智望ブログをご覧いただきありがとうございます。
このブログでは、毎回開智望小学校の教育について紹介しております。

・開智発表会が終わりました。

2月7日、8日の2日間で開智学園総合部の開智発表会が終わりました。
多くの方にご来場いただき、心から感謝いたします。

直前に雪が降り、急遽早めの下校になったり、当日雨の影響で2学年の子たちは臨機応変な対応を求められる中、立派に「おもてなし」の心を持ってお客様を迎えられたのではないかと思います。

さて、開智発表会が終わったといってほっとする間もなく、いよいよ開智望小学校開校まで残すところ、あと50日。

開智学園で培ってきた探究型の学びと国際バカロレアのカリキュラムを融合し、さらに進化した形の学びを実現すべく準備委員の教員は、日夜研鑽を重ねています。

・わかっている人とわかろうとしている人

探究型の授業をする際、教員とはどんな存在なのか。
どうすれば、これまでの知識伝達型の教員から脱皮できるのか。

私のもっぱらのテーマについて、とてもわかりやすい一つのモデルを発見したので、本日は読者の皆様にご紹介いたします。





まず、左の図です。


教員は「知識をもっている人」であり「答え方を教える人」となる場合、
子どもは、教えられた知識を正確に再現できるかを試されている、換言すると”取り調べ”を受けている立場です。

ここには明確な上下関係が存在します。

つぎに、右の図です。

<以下、佐伯胖『「わかる」ということの意味』岩波書店(1995)112頁より。>

-------------------------------------------------
学ぶべき知識は、「先生」の頭の中だけでなく、まず文化の中に埋め込まれています。つまり、知識は単に習得すべき事項として切り離されているのではなく、人間文化一般とつながりをもっているものです。その「文化」の中では、「知る」とか「わかる」という営み自体も、文化的活動にふくまれているのです。
 さて、「先生」というのは、まず本人自身が、文化的活動として、知識を再発見し、鑑賞する活動に従事する者でなければなりません。「先生」というのは、「どう教えるか」のみに関心のある人ではなく、「いったい、ものごとはどうなんだろう」という好奇心と探究心をもって、文化に参加している人でなければならないのです。(先生自身が、教えるべきことのおもしろさ、重要さ、便利さ、などを味わい、より深く探究している人であるべきなのです。)
 (中略)
 子どもの対しては、「ほら、よく見てごらん。こんなにも知識は素晴らしいではないか」と呼びかけているのです。
-------------------------------------------------
 左の図のような授業や子どもとの関わりをしていると、教員が構える“見えないキャッチャーミット”を目掛けて「物分かりのいい子」たち主導で授業が進み、
実は本当の意味で、もしかすると教員よりも文化について深い眼差しを持つ、一見すると問題児とも取られがちの子どもたちの意見が抹消されます。

すると、上記の文化への深い眼差しを持つ子たちは、「どうせこんなこと思っても、いっても、教員にも、他の子達にもバカにされる」といって文化への眼差しを隠し、封印してしまいます。

右の図のような存在として一緒に文化への深い探究を教員と子どもが共に行い、文化へ共同参画すると、子どもたちは自由な発想で、失敗を繰り返しながら意味を構築するのではないでしょうか。


・まとめ
教員とは”わかっている人”ではなく、”ともにわかろうとしている人”であるべきなのかもしれない。

本日も最後までお読みいただきありがとうございます。

また来週お目にかかりたいと思います。

・追伸

2月22日の説明会も2月11日現在、多くの方に予約いただいております。
前回の説明会に参加された方も約8割の方がリピート参加してくださるようです。
当日は、子どもたちの4月からの学びの具体的イメージを持っていただけるような内容をご用意しますので、奮ってご参加ください。