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【副室長コラム】東大入試問題の開智望的なアプローチ


2015年の大学入試が終わりました。さまざまな書籍に発表されているように、わが開智学園の受験生たちも大いに活躍いたしました。岩槻の総合部の卒業生は、一人が東大の理3に、一人が東京医科歯科大に合格しました。もちろん慶応や早稲田にも合格しております。
さて、昨年、スーパーグローバル・ユニバーシティに指定された東大の入試問題は、どうだったんだろう。たいへん気になりますな。そこで、問題を覗いて見ようかと思い立ちました。
 第一問は、現代国語の論説文の問題です。
 東大の国語の入試は、設問形式が毎年同じです。でも、スーパーグローバル・ユニバーシティに指定されたんだから、今年は、変化しているのではないかなと期待しつつ、問題を見てみました。
 
本年度
 出典 池上哲司「傍らにあることー老いと介護の倫理学
 内容 キーセンテンス
    「自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているか・・・・・・そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけると言うことであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組みなおされることが生成である。そして、この生成の運動において、いわゆる自分らしさというものも現れるのである。」
    「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない。つまり、自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。」
    「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるのか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか、この『・・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。」

 設問(五)「この秘められた、可能性の自分へと向かうのが、虚への嗜好性としての自分の方向性でもある」とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。
 昨年度
 出典 藤山直樹「落語の国の精神分析
設問(五)「生きた人間としての分析か自身のあり方こそが、患者に希望を与えている」とあるが、なぜそういえるのか。落語家との共通性にふれながら、100字以上120字以内で説明せよ。

 慶応大学のような教科融合型のテーマか、国際問題にかかわる「多様性の理解」についての問題を期待していたのですが、時代の動きに、まだ東大の国語の入試問題は対応できていないようですな。

 しかし、昨年の主題にしても、今年の主題にしても、ともに人間の「自己」の問題であったということに興味を強く惹かれました。と同時に後述しますが、静かに少しずつ、底流では動いているんだなとも感じられました。こわいですね。

閑話休題。十年ほど前は、「確固たる自分」や「理性」(まあ、「合理性」といった意味でしょうが)に対する「懐疑の表明」のような文章が東大に限らずよく出題されていたようだと記憶いたしておりますが、最近は、再び「自分」というものの意義を、考え直すような傾向の文章が出題されるようになって来たのかという感があります。これには、どのような意味があるのでしょうか。
また、受験生は、こうした問題を自分の問題として、リアリティーを持って感じ取れているのかということが大変気になります。
 今年の入試問題の第一問は池上哲司さんの「傍らにあることー老いと介護の倫理学」からでしたが、この文章の中の、たとえば、「自分らしさは生成の運動」とか、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるのか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか、この『・・・・・でない』という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。」というようなところを、18歳のくらいの受験生諸君がどれだけリアルに、実感を伴って、いわば「自分のこと」として考えることができるだろうかという点。これが大変気になりました。

 おそらく、こうした事柄を「自分のこと」として強いリアリティーを持って感じ取ることができ、考えることができる受験生ならば、解答を容易に作成することができるのでしょうな。しかし、いったいどこでそのような経験をすることができるのでしょう。書物で知った他人の経験や思想、受験勉強で獲得した知識に、さほどリアリティーがあるとは思えませんし、そうした経験や知識でたいした解答を作れるとも思いません。
 一般に「読解力」と言われている、「読みの方法」を身につけているだけの受験生は「それなりの解答」を作るんでしょうが、実感があるのとないのでは大違いでしょうな。
 では、どうしたらリアリティーのある知識や経験が得られるのでしょうか。
 国際バカロレアのディプロマ・プログラムを行っている、イギリスのインターナショナル・スクールで学び、日本に帰ってきて、今、東大で物理学を専攻している女性が、12月14日に行われたシンポジウム『国際バカロレア経験者が語る、IB教育の実態と今後』で次のように語っていました。
 「私は、Physicsの授業で『ビッグ・バン理論を用いて小説を書け』という課題を与えられました。大変苦しみましたが、この課題をやりあげたことが、物理額を専攻しよう決心する動機となりました。」
「知識はインプットするよりも、アウトプットすることのほうが重要だと思っています。インプットだけで覚えるよりも、アウトプットするために学んだ知識のほうが、はるかに自分のものになっています。」
 これはどういうことでしょうか。
 ちょっと話が迂回しますが・・・・。
 国際バカロレア初等教育プログラムで用いるリサーチスキルの中に「Formulating question」があります。「疑問を絞ること」という意味ですが、これが、「調査計画作り」や「観察」「データ収集」「データの記録」等々に対して、一番初めに来ています。なぜかというと、学習者は、何よりもまず、自分自身で、考えるべき、あるいは、解決すべき問題を絞らなければならないということですな。彼女は、『ビッグ・バン理論を用いて小説を書け』という漠然としたテーマを手がけるにあたって、それを自分自身にとって「やれる」ようにするために「問題をかなり具体的に絞ったということです。
 実はこれがとても大切なんです。というのは、自分自身にとって解決すべき「問題」だからこそ、学習者にとってやりがいがあるんです。やりがいがあるからこそ、主体的になれるんです。主体的になれるからこそ、頭も使うことになります。分析もするし、総合もする。知識を理解し体得するし、それらを活用して、問題を解決する。もちろん、先の女性が言ったように「大変苦しむ」ことになります。もがき苦しみます。しかし、だからこそ、いっそう考えることになるんですな。そうして、自分の「過去」、すなわち、「すでに獲得され造構化されていたさまざまな知識」の組み換えが起こります。新しい知識はその中に組み込まれ構造化されていきます。つまり、アウトプットしようとして獲得した知識のほうが、インプットだけで覚えた知識よりもはるかに自分のものになるし、リアリティーがあるということです。

 さらに、個々人、肉体的にも精神的にも、経験にしても、先行知識にしても大変異なっています。哲朗君も、洋平君も、ジョン君も、佑爾君も、体格も違えば、経験も違う。もちろん学び取って内在化してきたことも違う。同じ一人の人間でも、年齢により、体調により、同じ経験でも異なって受け止められます。
そういうことを自らが主体となった学びの中で、あるいは、協働学習の中で、仲間同士が互いに作用しあうことで、学習者は大変強いリアリティーを伴って経験していきます。それが、それぞれの「自分らしさ」として生成していくんでしょうな。そして、それを互いに認めるようになっていく。
 まさしく、「今、自分は生成している」。しかも、大変強い実感とリアリティーを伴って。そして、それにより、徐々に「ほかではない、この私」という「自分らしさ」が、これまた強いリアリティーを伴って形成されてきます。
 こういうことを、今年の東大の入試の国語の問の池上哲司の文章で言っているのでしょうね。
 これに対して、普通の受験勉強はどうでしょうか。教師が、「えー、三段落目を読んでください。『統合が意識されている場合』とありますが、これは、『現在の自分』の意味付けを『過去の自分』の経験を土台にして行っているということでありましてぇー、たとえばですな、哲郎君の場合でいえば、・・・・。」というような授業やっています。しかし、これは、どう見ても、学習者が「問題を絞っている」わけではありません。もちろんこういう場合は、学習者はあまり考えてはいません。要するに、「先生」のいうことをよく聞いて「理解」し、「記録」しているかどうかが問題になるわけです。ですから、こうやって得た「知識」にはリアリティーらしきものは何もありません。

 しかし、こういう学びを繰り返してきたら、この東大の問題には歯が立ちませんよね。河合塾の評価ではこの問題の難易度は「難・やや難・標準・やや易・易」の五段階の「難」に相当するそうです。まあ、こんな授業を受けていたらそうかもしれませんね。しかし、先のような探究型の学びだと、ほとんどすべての学びが、池上哲司さんの述べているようなことにつながっているんです。
 そう考えてくると、日本で国際バカロレアのプログラムを導入した学校を作るということの意味と責任とを大変強く感じざるを得ません。
 すぐに大きな変化が起こるというより、少しずつ、静かに底流で進行するように変化が起こっているんですな。それが数年後、社会一般の風潮となって定着する。そのときに向けて、子どもたちと一緒に着実に「開智望小学校」から学校を、そして、その学びの方法を作り上げていこうと楽しみつつ決意しております。