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【コーディネーター便り】開智望の本質とは何か

開智望の本質とは何か

 今週の土曜日の「開智望祭り」の全体的なテーマは「開智望の本質とは何か」ということです。

 

 ところで、その「本質」を「こうなって欲しい」とかんがえるとどうなるでしょうか。「こうなって欲しい」という思いには、いろいろあります。「やさしく思いやりのある人に育って欲しい」「勉強が出来るようになって欲しい」「世界の平和を実現する人のひとりになってほしい」「ノーベル賞を取れるような科学者になってほしい」「そのような人を育てる学校になってほしい」等々です。しかし、よく考えてみると、こういう願いは、「個人的な願い」や「ある立場の願い」ではあっても、コミュニティー全体の「願い」になるのでしょうか。そうではないでしょうね。

 

「学びのコミュニティー」とは・・・

 ところが、あえて開智望小を「学びのコミュニティー」と考えると、どこまでの人がこのコミュニティーに属するのかを考えたら、こりゃたいへんなことになると恐ろしくなりました。

 まず、児童たちはもちろんその成員です。教師たちもそうです。保護者の皆さんはもちろんそうです。校長をはじめとする管理職も、事務職も、学童の先生たちも、食堂の職員も、購買部の職員も、バスの運転手さんも、すべてその成員です。これは当然として、開智望小に関わっている人も「コミュニティー」に加えるとすると、常総線の駅員さんや運転手さんも、郵便局の職員さんも、TXの職員さんや運転手さん、学校を取り巻く地域の人々、二年生が取材に行った八坂神社の宮司さん、一年生が取材に行ったミルク工場やビール工場の皆さん、バカロレアに関係している人々、みんなコミュニティーの成員です。

 そう考えると、「開智望小」という「学びのコミュニティー」の「本質」とは、いったいなんだろうということが分からなくなります。しかし、分からないなりに、これも探究してみようかなと思い直しました。そうしないと子どもたちに負けてしまいます。

 「コミュニティー」とは、私はいままで、同じ地域に居住して利害を共にし、政治経済風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりのこと、つまり、「地域共同体」や、家族以上市町村未満の「小社会」というようなイメージで捉えていました。こう捉えると、「コミュニティー」は有限な小社会ということになります。しかし、その集団に、ただ関わったり所属したりするだけで「コミュニティーの成員」といえるのだろうかという疑問が起こります。

また、「欧州共同体」などという言葉もあるように、国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「コミュニティー」なのかなと考えてもいました。こう考えると「コミュニティー」は無限大の大きさを持ちます。そうすると「世界はコミュニティー」ということになり、あえて「コミュニティー」という言葉を用いる意義があるのやら、ないのやら、さっぱりわからなくなりますな。

 

アカン、「概念的思考」を忘れておった

そこで、私は、私の考えの前提を考え直す必要に迫られました。

私は、「コミュニティー」を「それに関わる人々」「それに所属する人々」という観点(perspective)から捉えていました。バカロレア初等教育プログラム(PYP)は、概念的思考(concept-based-thinking)に基づいた概念操作カリキュラム(concept-based-curriculum)です。私はこのとき、「ワシャ、まったく概念的な思考を行っていなかったぞ」と、深く反省しました。そこで、私は、「コミュニティー」を「機能・働き・役割」といった「perspective」という観点から考えてみようと思い立ちました。

そのためには、「まずデータを集めなアカンナ。『子どもたちにはそういうふうにさせるプランを作りなさい』と教師に言っているんだから、ワシがやらんかったら、こりゃ、ちょっと恥ずかしいぞ」ということで、データを集めることにしました。

 

「コミュニティー」の探究

まず、「祭り」などの伝統的な協働の行事や、田植え・稲刈り・子育て等の相互扶助を行ってきた「地縁集団」としての「地域共同体」。

これは、フェルディナント=テンニエス(Ferdinand Tönnies)のいうところのゲマインシャフト(Gemeinschaft=共同社会・有機的関係によって結ばれた人間関係)に相当するんでしょうが、1970年頃まではかろうじて存続していたけれど、いまではほとんどないなと考えました。(本当は、ここで、こうした「地域共同体」の数の年次変化と行事の変化等の資料を付する必要があるのですが、いつか時間のあるときにということにしてください。)

つぎに、市町村の地区単位で組織化されているところの「町内会」、あるいは、「自治会」といった「地域コミュニティー」。

これらは、かつては、農業コミュニティーや商店街コミュニティーにその基礎を置いていましたが、農産物の輸入自由化やスーパーマーケットの進出等により、やはり衰退し、現在はほとんど機能していないので、これも、私たちのテーマには関係がないだろうと判断しました。

「マンションの管理組合」はどうでしょうか。

これは、「施設管理」を主たる目的としており、人々の入れ替わりも多いし、時には、町内会自治体との対立も起こしているので、どちらかというと、テンニエスのいうところのゲゼルシャフト(Gesellschaft=利益社会・集合社会)に近いのだろうなと考え、これも私たちのテーマとは関係がないと判断しました。

特定の問題において社会貢献を目指すNPO市民グループなどの「テーマ・コミュニティ」はどうでしょうか。

これは、一方で、ある価値観、信念、態度、行動等によって結びついた集団であるとともに、他方で、参加者の未熟であった価値観や信念や態度を深め広めるという教育的な効果を持っています。そういった意味では「準拠集団 (reference group=人の価値観、信念、態度、行動などに強い影響を与える集団) 」の役割も負っています。

 

開智望の「学びのコミュニティー」とは

さて、私たち開智望の「学びのコミュニティー」とは、この「特定の問題において社会貢献を目指すNPO市民グループなどの『テーマ・コミュニティ』」に近い性格を持つのだろうと考えます。

となると、次に問題になるのが、私たちの「学びのコミュニティー」の「価値観・信念・態度・行動」ということになります。これこそが、私たちの集団、すなわち、「開智望の学びのコミュニティー」を「開智望の学びのコミュニティー」たらしめている、「本質」に違いありません。

では、「私たちの学びのコミュニティー」の「価値観・信念・態度・行動」たるものはなんでしょうか。この「私たちの学びのコミュニティー」の中に含まれるものは、児童たち・教師たち・保護者のみなさん・事務職・管理職・学童の先生たち・食堂の職員さん・購買部の職員さんも・バスの運転手さん、そして、国際バカロレア機構とそれに属する教育機関でしょうね。こうした「私たちの学びのコミュニティー」の「価値観・信念・態度・行動」とは、いったいなんでしょうか。「これをのぞいたら、私たちのコミュニティーが、私たちのコミュニティーでなくなってしまうような価値観や信念や態度」とは、いったいなんでしょうか。

私は、それは「常になにごとかを探究し、互いに影響しあい、みんなで高まっていくこと」ではないかと考えています。児童たちの間でもそうでしょう。児童と教師の間でもそうでしょう。また、児童と保護者も、保護者と教師も、児童と保護者と教師も、児童と教師と保護者と管理職も事務職も、学童も・・・、みんな「常になにごとかを探究し、互いに影響しあい、みんなで高まっていく」、それが「開智望」という「学びのコミュニティー」の「本質」ではないでしょうか。

 

「なにごとか」とは、あるときは「インディヴィデュアル」な、あるときは「ローカル」な、さらに、あるときは「ナショナル」な、そして、あるときは「インターナショナル」な問題でしょう。また、あるときは「科学」、あるときは「社会」「文化」「歴史」、あるときは、「生活」や「人間」や「心」等々の問題でしょうな。また、あるときは、「習慣」「モラル」「ルール」の問題であり、「行事」の問題であり・・・・。

こうした「問題」は、私たちにとってたいへん切実で避けてとおれない問題でしょうね。それをみんなが探究し、その過程で、互いに影響しあっていくんですぞ。それが私たちの学びのコミュニティーだと考えます。

今、保護者の皆様と面談をやっていますが、皆様と話をすればするほど、この確信が強くなりました。・・・と考えたら、あらためて言いたくなりました。「よろしくお願いします。」