【コーディネーター便り】成長とは何か(Unit5と開智望発表会に向けて) その1

 一年生の探究の単元のユニット5は、教科融合のテーマ「Who we are」(私たちはどのようなものか)、そのセントラル・アイデア「私たちは成長し続ける存在である」です。

自分たちはどう成長したのかを振り返り、どう成長していくのかを、Responsibility(主体・責任)やFunction(役割・働き)などを通して考え、それを戯曲によって表現し、開智望発表会で発表するという遠大な計画です。

 

職員会議にて

 

職員会議の中で青木理事長・校長が質問しました。「諸君が小学校一・二年のとき、成長を実感したのは、どういうときでしたか?」

 教員諸君も事務長も副校長もみんないろいろと思い出を述べていました。しかし、まとまりがつきません。聞いていて分かったことは、私以外はみんな「優等生」だったんだということぐらいでした。

後で、理事長と話しているとき、学校外の地域活動の「お祭り」で、稚児の役割したときに成長を実感したというところは共通していました。老人、大人、青年団に混じり、小学校一年生も大切な役割を負う。一人前の扱いを受ける。そういうときに、自分の成長を実感する。異学年活動の意義もここにあるわけですね。

閑話休題。もう一つ分かったことは、「成長」といっても、それを考え、評価する概念装置がなければ、共通の話題になりようがないし、子どもたちの「成長」を捉えることもできないということです。

 そこで、「成長」とは何かを定義した上で、それを構成するエレメントを挙げて、それぞれを明らかにし、それらがどう開智望のミッション・ステートメントや国際バカロレアのミッション・ステートメントと「10の学習者像」と関連しているのか、それと関連させて見ると、今、子どもたちはどう成長しているか、等を考えてみようと構想しました。

まず、「成長」とは何かということですが、近代思想の流れの中で考えると、「個人が、社会の担い手、さらには、歴史を創造する主体に成っていくこと」ということになります。ところが、この定義だと、「社会の担い手」や「歴史を創造する主体」とはどんな人間性をもった人物のことかが明らかではありません。そこで、この定義をひとまず承認した上で、以下のような構想で、「社会の担い手」や「歴史を創造する主体」とはどんな人間性をもった人物のことかを考え、「成長」とは何かを明らかにしたいと考えます。

 

  • 主体の形成と自我
  • 倫理的な人格の形成と概念的思考との関係
  • 社会性の形成
  • 創造力の発達
  • 構想力の発達
  • バランス

 

主体の形成と自我

 

「成長」とは何か」という問題はたいへん難しい問題です。近代思想の流れの中で考えると、「個人が、社会の担い手、さらには、歴史を創造する主体に成っていくこと」ということになるんですがね。

ところが、最近、その「主体」という概念があまり使われなくなってきました。その原因として、フェルディナン=ド=ソシュールレヴィ=ストロースらの考えの影響により、存在するのは言語や社会の「構造」であり、人はそれらによって動かされている、いわば「客体」であるという考えが世の潮流となっている成果とも思いますが・・・。じゃ、考え方を変えて、もう一度「主体」を復権させたらいいじゃないかということになりそうですが、ことは、どうもそう簡単ではないようです。

 

精神医学者で小説家でもある加賀乙彦氏は、フランツ=カフカに関して次のように書いています。

「・・・つまり、現代人が情報の洪水に漬けられていること、言ってみれば、他人のおびただしい意見に圧倒されて自分本来の思考をうしなっているという面です。私たちは、できあいの思想で着ぶくれして、身動きができない人間になりさがっています。この自己をうしなった受動的状況は、情報の伝達をするマスメディアのみに限りません。私たちの日時用生活をおおっているおびただしい商品の存在もそうです。・・・自分自身の思想、自分自身の欲するものはあまり得られないで、全部製品として外から与えられる、これこそ、現代人の状況です。」(加賀乙彦 「私の好きな長編小説」1993 新潮選書 159ページ)

「正常が、もし他人の支配に身をまかせることであり、平和が、もし現体制を維持するだけの意味内容しか持たず、幸福が、もし平均化した物質生活を営むことだけのこととすると、現代の『他人指向型』の生活は困ったことになりはしませんか。」(同160ページ)

 

情報化時代における主体形成をめぐる事態の深刻さ

 

加賀氏の文章は、現代人の主体形成(その社会の担い手、さらには歴史を創る主体となること)を取り巻く「問題」の深刻さを表しているのではないでしょうか。

 尾関周二氏は、今日の「ネットワーク文化」について次のように述べています。「それは、人格的独立性のコミュニケーション的ネットワーク化を図る方向ではなく、情報化社会においてそれこそ電子メディアによって増幅されたシステム化傾向の中で人格性・主体性が消去され、物象関係のみが残されていく傾向」(尾関周二「『情報社会』における人間存在」日本哲学会編「哲学」No.48 1997年4月 54ページ)

 

 この指摘は、まさしく情報化社会における「主体」の希薄化です。

 昨年、ある学校の授業を見てきました。国際化・情報化の時代におけるグローバルな人格形成という、その学校のミッション・ステートメントに沿って、高2の英語の授業を行っていました。ところが、この授業、どこまで行っても、情報化社会と人工頭脳のトピックから離れることが出来ません。人間の、自分の自覚や責任の問題が出てきません。そのため、最も大事な、そして、最近最も省みられることのない、「科学技術の発達と人間の責任」や「情報化社会における自己とは何か」といった根本的な問題が話し合われないんです。「主体」の確立の問題はどこかに消えてしまっています。

 

「天の瞳 幼年編」の「倫太郎」の自我

 

 倫太郎に対して、「じいちゃん」は正解を言いません。いつも子どもたちに何かを自力で悟らせようとしています。倫太郎はそのような「じいちゃん」により自ら見つけた「正義」を貫こうとしていきます。ヤマゴリラらヤマンバらの誤解や偏見による理不尽な叱られ方や命令でそれが妨げられることもあります。しかし、倫太郎は、それを乗り越えることにより、自分に自身を持っていきます。こうして、成長の中で、豊かに、しかも強固に発展しつつも、変わらざる「この自分」の形成されていきます。これこそ、自我の形成と確立にほかありません。

 倫太郎の自我の意義には、たいへん深いものがあります。このようにして確立された自我は、現在のような情報化社会の中で、洪水のように押し寄せる情報に翻弄されて崩壊したり、見失われたりする「自我」ではありません。また、その場、その場の状況の中で的確な判断はするが、そこに血や肉を持った精神の充実を感じられない、冷たい自我でもありません。

 人間は人工頭脳ではありません。どこが一番違うかというと、人間は、熱い血と肉体を持っているところです、だからこそ、それぞれがみんな異なった欲望や欲求、悲しみ、怒りや喜びを感じるのですし、また、自分に引き付けて、他者の欲望や欲求、喜びや悲しみや苦しみを自分のことのように共感することができるのでしょう。こういう、その人らしい「自我」こそ、私たちが目指すところの「自我」なんです。

 人間が「理性」や「思考」だけでなく、社会的・共同的存在であること、そして、血や肉を持った自然的な存在であることは、とりもなおさず、人間がメディア環境の中に生きるだけでなく、他方で豊かに自然環境の中で生きる存在でもあるということです。人間もひとつの生態系の中で他の生物と相互作用をし合って生きています。こうした生態系は個々人が属している生態系ですから、「地域生態系」とでも呼べそうなものですが、そうした中で自分自身の中にある「自然性」を自覚する必要もあります。それが、「主体」としての自己形成につながります。これは、小3で行うプロジェクト学習の「米作り」で意識的に実施します。同時にこれは、「Sharing the planet」というテーマを介してエコロジーの理解にもつながります。

 

また、コミュニケーションにおいては、仮にバーチャルなコミュニケーションであっても、身振り・手振り等の非言語的なコミュニケーションを伴う協働的なものである必要があるでしょうね。これも、情報化時代における人間性の自覚と主体の確立につながるんです。

 

 

子どもたちは今・・・

 

 

一年生のある子は、教師に認められることにより自己肯定感を得て、少しずつ「自分」に対し自信を持ち始めています。

二年生のW君は、自分が正しいと思っていることを、みんなと協力して実現しようとしています。もちろん障害はありますが、彼もみんなも、互いに協力して壁を乗り越えることにより、「確固たる自我」を確立していくでしょうな。

スイミー」も「天の瞳」の「倫太郎」も、困難を乗り越えることによって自我を確立していきます。困難には苦痛が付きまといます。バーチャルなものではない、生身の生きた身体を持った人間であるからこそ、壁を壁と実感し、苦しみ、頭を使い、乗り越えていくんです。その結果として、その人らしく、かつ、強い自我が確立してくるんですな。これは「Risk-takers」に、さらには、「Principled」に繋がっていくんですね。

しかし、実はそれだけでは、いかんのです。なぜでしょう。それが次の事柄なんです。(以下、次号)