【コーディネーター便り】開智望発表会に向けて その2

開智望発表会に向けて

 

子どもたちは今・・・

 

子どもたちは、今、2月14日(日)の「開智望発表会」に向けて、楽しく準備を進めています。

驚きました。あるクラスですが、子どもたちの創った「脚本」の台詞のなかの、ある台詞が、子どもたちの成長(振り返りと考え方や行動の転換)を端的に表しているんです。「ここにこのクラスの思想が凝縮されているぞ!」私は、思わず、声を上げていました。しかし、驚くべきことは、この後の子どもたちの探究だったんです。

「この台詞に向かって劇を盛り上げていくにはどうしたらいいんだろう。」こういう問いから、子どもたちは、この台詞とその意義について理解し、共有し、今まで自分たちが考えてきたプロットや台詞を書き換えはじめたんです。これは、たいへん優れたReflectionです。自分が一生懸命考えた台詞を削られる悲しさ、なんてことは関係なく、みんなでいい物を作ろう、そのために、各自、いいアイデアを出そう、全力を尽くそうとけなげにがんばっている子どもたち。私は、年を取って涙腺が緩んでいるので、ついホロっと・・・。

ここまでくると、下手に大人が口を挟むのは野暮ですね。

 

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開智望発表会 - 開智望小学校

 

成長とは何か(Unit5と開智望発表会に向けて) その2

 

さて、年末の「学校だより」で「成長」について考えてみました。今回はその続編です。まず「成長」とは何かを定義した上で、それを構成するエレメントを挙げて、それぞれを明らかにします。そして、それらがどう開智望のミッション・ステートメントや国際バカロレアのミッション・ステートメントと「10の学習者像」と関連しているのかを、「成長」の定義やエレメントと関連させて、今、子どもたちは何に向かってどう成長しているかを考えてみようと構想しました。

まず、「成長」とは何かということですが、近代思想の流れの中で考えると、「個人が、社会の担い手、さらには、歴史を創造する主体に成っていくこと」ということになります。ところが、この定義だと、「社会の担い手」や「歴史を創造する主体」とはどんな人間性をもった人物のことかが明らかではありません。そこで、この定義をひとまず承認した上で、以下のような構想で、「社会の担い手」や「歴史を創造する主体」とはどんな人間性をもった人物のことかを考え、「成長」とは何かを明らかにしたいと考えます。

 

  • 主体の形成と自我
  • 倫理的な人格の形成と概念的思考との関係
  • 社会性の形成
  • 創造力の発達
  • 構想力の発達
  • バランス

 

 前回は、①の「主体の形成と自我」について述べました。そして、最後に「強い自我」だけでは不十分であることを指摘して終わりました。今回は、その続きであり、解答であるところの「倫理的な人格の形成と概念的思考との関係」について述べようと考えております。

 ただ、わたしはなにぶん与太なもんで、あっちへフラフラ、こっちへフラフラで、焦点の定まらない文章になってしまいます。申し訳ありません。先に謝っておきます。

 

 

kaichinozomi.hatenablog.com

 

 

倫理主義・人格主義の限界(概念的思考の意義)

 

「倫理観」ってなんでしょうか。いきなり変な話ですが、強い自我があって、倫理観が欠如している人物ってのを想像してみましょうか。

 

 

 ナチズムを目の当たりにし、人類がファシズムにいたる「本質」とプロセスを研究したマックス=ホルクハイマーとテオドール=アドルノは共著「啓蒙の弁証法」の「序文」で次のように述べています。「勝利者であった思想が、・・・・勢いのおもむくままに、かつて選び取った積極的なものを、自らの意思に反して、否定的なもの、破壊的なものへと変貌されてしまう。」

 カントの倫理学の影響を受けたマックス・シェーラーらの学者や大学でそれを身につけた人々が、ファシズムの台頭に無力であるばかりか、むしろ積極的に協力さえしたという歴史的事実を言っているんです。

 個人の上に立脚した倫理観だけでは、人は、世界の深刻な事態に直面するとほとんど無力であるということなんです。どこまでも個人の「良心」に立脚するところの、いわゆる「人格」の賛美は、それだけでは、広く社会や自然に目を向けて、その本質を捉えていかない限り、人類が直面する新しい局面を解決するにはあまりに無力であるし、実際に無力でした。白樺派有島武郎は戦争に向かって歩みを進める現実に強く反感を持ちながらも、結局、自ら命を絶ったし、志賀直哉は、自らの良心を守るのに精一杯でした。なぜでしょうか。

 世界や社会に対する科学的な認識が出来なかったからです。かれらは自分の「良心」の世界に閉じこもったままでした。そこで、成長のもう一つのエレメントになるのが、世界や社会の認識と自己の責任の自覚です。戦前、日本の軍国主義化に対して一歩も引くことなく戦った哲学者の戸坂潤は、諸範疇は科学的な認識と深くかかわる必要があると述べていました。

 「生成文法」で有名なノーム=チョムスキー氏が、人間の言語習得が幼児期の、しかも、非常に短期間で行われることについての仮説として、人間は生まれながらにして基本的な言語能力(コンピテンス)持っているという「言語生得説」を提示したのには、実はもうひとつ理由がありました。それは、恐怖の時代を支える「人間操作の人間観」から人間性や主体を守り、人間操作の思想に抵抗しようとしたからです。チョムスキーが戦わんとした「人間操作の人間観」とは、「人間性などありえない。人間はいかようにも変えうる」というものでした。

 チョムスキー反戦平和の立場から大変優れた発言をしていますが、彼の理論はそれを下支えするものでした。

 しかし、それなら、およそ人間というものはだれも支配されないし、主体性を失うはずはありません。ところが現実はそうではありません。チョムスキーはそこのところを見て取ることができなかったんです。では、それは何によってか。それが「概念的に思考する力、科学的な認識に支えられた世界観」です。

 これは、私たちにとっては、どうやって子どもたちの「概念的に思考する力」を育成するかという問題です。子どもたちにとっては、世界や社会に対する科学的な認識と、自己の責任の自覚に裏打ちされた倫理観を形成することが成長のひとつのエレメントとなることなんです。

 

概念的思考の重要性・・・科学的認識・洞察力

 

IBでは概念的思考の意義を次のように述べています。

The exploration and re-exploration of concepts lead students towards an appreciation of ideas that transcend disciplinary boundaries, as well as towards a sense of the essence of each subject area. Students gradually work towards a deepening of their conceptual understanding as they approach those concepts from a range of perspectives.

「諸概念の探究と再探究とは、児童・生徒を、超教科的な(テーマ同士の)境界を越える観念の正しい理解に導く。それぞれの教科領域の重要なことの理解に導くのはもちろんであるが。児童・生徒たちは、広い観点からこれらの概念にアプローチするにつれて、しだいに概念的認識が深まっていく。」

 

一つの見方に偏ったり、固定的な見方しか出来なかったりしている状況を打破し、多面的な見方が出来るようになること、目に見える現実や大量に与えられ、日々変化していきとどまるところのない情報の中に、事態の真相や本質を見つけ出すための思考の装置が 「概念」です。

概念的思考を身につけないかぎり、世界の真相は見えてこないわけですから、日々、刻々変化する大量の情報の中に溺れ、自分を見失っていくということにもなりかねません。主体がただ倫理的なものだけである場合の弱さは、そこにあるわけです。

 

子どもたちは今・・・

 

で、子どもたちは、この点でもたいへん大きな成長をはじめています。たとえば、算数では、・・・・・。一年生の探究の単元のⅣでは、・・・・・、これは次回に回しましょう。