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プレゼンテーションの論理

ある教室で、探究のプレゼンテーションをやっていました。

 

 「成長」と「進化」の違いについて、プレゼンテーションをしていました。

 

「『成長』とは、生き物の一つ一つが、子孫を残すことができるような体になることです。それは、バッタの幼虫はまだ、子孫を残すような力がありませんが、バッタの成虫は子孫を増やす力を持つようになっています。植物も同じです。アサガオは双葉のころや、ツルを伸ばし、葉をつけたころは、子孫を増やす力はありませんが、花を咲かせてようやく子孫を増やす力を持ちます。このように『成長』とは、生き物が、子孫を残すことができるような体になることです。」

 

「『進化』とは、その種の生き物全体が、その形や生き方を変えることです。同じ犬でも、秋田県シベリアンハスキーという種は、寒いところで暮らせるように体の形や働きが変化してきました。また、チワワやグレーハウンドは暖かいところで暮らせるよう、体の形や働きが変化してきました。こういうふうに、『進化』とは、その種の生き物全体が、その形や生き方を変えることです。」

 

 2年生たちは、Changeという概念を通して、「生きているもの」とはどういうものかを、先行知識を使い、仮説を立て、調べたり観察したりして、ここに行き着いたんです。しかも、この探究を通しChangeという概念の意味も具体化され、知識に支えられたしっかりしたものになってきています。私は、2年生の探究のプレゼンテーションとしては大変すばらしいなと感激したんです。

 

しかし、このプレゼンテーションが、パチパチパチという拍手で終わってしまったことにちょっと違和感を覚えました。

 

モノゴトを探究し、それを明らかにしていくには、「論理」というものが必要です。開智望小学校の児童たちも、「原因」だの、「変化」だの、「機能」だの、概念を用い、その関係を考えています。こういうことを一年生もやっているんだから、たいしたもんだと思っているんですが、こういう「探究の論理」とは、対象の中に切り込んでいく論理です。

 

ところが、「プレゼンテーションの論理」ははたして、「探究の論理」と同じものなんだろうか、と疑問に思ったわけです。

 

このプレゼンテーションが、パチパチパチという拍手で終わってしまわず、誰かが「じゃ、お米の品種改良は、お米の『進化』なんだろうか?」という質問を出したらどうなったのかな、と考えます。同じことを繰り返しても、質問した児童は納得しないですよね。私自身、この問題はよくわかりませんが、ただ次のことはプレゼンテーションには必要なことではないでしょうか。

 

・相手の立場に立って話す。

・比ゆ的に説明する。

・身体的な表現を用いる。

・表情を効果的に用いる。

・象徴的な表現を行う。

・典型的な事例を用いる

・ストーリーを作って説明する。

・イメージ化する。

等々

 

さらに・・・

・聞き手は、質問したり批判したりする。

・話し手は、聞き手の批判を受け止め、自分の考えを振り返り、修正すべきところは修正する。

等々

 

プレゼンテーションの「論理」は「説得の論理」です。ですから、対象にキリキリと切り込んでいく「認識」の「論理」とは異なります。相手は、自然や社会といった対象ではなく、「人々」であり「仲間」であり、「友達」です。場合によったら、「利害の違う人」かもしれませんし、文化も歴史も違い、考え方や価値観も微妙に異なっている「外国の人」かもしれません。こういう「人々」を相手にするのがプレゼンテーションですよね。ですから、プレゼンテーションの論理は「説得の論理」でもあるんですな。

 

しかし、また、いくら「説得の論理」であるからといって、「探究の論理」をどこかに置き忘れてしまったら、「相手を説得で切れば、虚偽でもいい」なんてことになりかねません。まぁ、小学生ですからそんなことは考えませんけれど。しかし、そういう危険性があることはまちがいないことです。ですから、しっかりと「探究の論理」の上に立った「説得の論理」「プレゼンテーションの論理」である必要があるんですね。

 

芸術家の永井潔氏が、優れた芸術家は、世界に対する深くて広い知識を持っているということを言っていました。そういえばピカソにしても、チャップリンにしても世界に対して大変深い洞察をおこなっていましたよね。

 

ところで、プレゼンテーションは、話し手から聞き手への一方通行のものでしょうか。それが、大変重要な問題です。最近、一方的に「まくしたてる」ようなプレゼンテーターが、あちこちにたくさんいます。ですから、特に気になるんですけれど。私なども、迂闊にもそうなってしまうことがあります。

 

日本では、この「問題」に気づいていた人が戦前にいました。哲学者の三木清氏です。

三木氏は、「解釈学と修辞学」(初出 1938年)というエッセイの中で次のように述べています。

 

「修辞学は人と人との関係の上に立つものとして根源的に社会的である。それ故に修辞学は単に論理的でなくまた倫理的であり、その証明は倫理的証明を含むということができる。かような証明の要素は真実性である。」

「その思考が性格的(ex homine)であって、彼の人間の真実を現わしているとき、ひとは説得される。一般的な理由はひとを屈服させることができるにしても、心服させることはできぬ。修辞学はつねに一般的なものの特殊化を求め、一般と特殊との綜合としてそれは表現的である。我々は自分の理由によって他の者を屈服させることができるにしても、彼自身の理由によってのほか他の者を心服させることができない。したがって修辞学は相手の人間の心理や性格を考慮し(ad hominem)、彼らがそこに彼ら自身の理由を見出すようにしなければならぬ。この場合他の者において前提されるのは彼らの真実性である。そして我々の真実性のみが彼らの真実性を喚び起し得るであろう。」

 

 ちょっと難しい言葉が多いですが、要するに「一般的には、こうだ」「正しいこととは、これこれこういうことだ」と主張したところで、「お前の言うことは正しいかもしれないが、それをお前が言うとなると、俺はなっとくせんぞ」ということがあるので、相手の気持ちを考え、相手の事情を心から思いやる「真実性」がなくてはならない、ということを言っているんです。

 

「修辞学的思考の客観性、単なる客観性以上の、単に論理的な思考の客観性よりもさらに深い意味における客観性の根拠はどこに存するのであろうか。それは社会のうちにあると考えるのみでは不十分である、一致の客観性の根拠は、聴く者がただ聴く者でなくまた語り得る者であり、そして逆に語る者がただ語る者でなくまた聴き得る者であるというところに存している。語る者に対して聴く者は単に聴くのみでなく、みずからも語り得る者、すなわち独立のものでなければならない。汝とはただ聴く者でなく同時にまた自身語り得る者のことである。聴く者が同時に語り得る者であるということは、彼が語る者に対して否定の可能性を有する者であるということを意味している。かくのごとき汝に対してのみ私は真に私であり、したがって語る者は単に語るのみでなくまた聴き得る者であり、かくしてまた自己否定の可能性を有する者でなければならない。すなわち修辞学の論理は弁証法である。人間はどこまでも社会的であるとともに、この社会においてどこまでも独立のものであるということが修辞学的思考の基礎である。」

 

 つまり、互いに納得するためには、聞くものがただ聞くだけでなく、語るものであり、また、語るものはただ語るだけでなく聞くものであるということ、しかも、聞くものは、語るものの語ることを否定することもあるということであり、語るものは、自分の言説を振り返って修正することもあるということなんです。そして、こういう相互作用によりプレゼンテーションは成立しているということなんですね。

 

 そう考えると、児童たちが、探究の最後のプレゼンテーションの論理を身につけるには、「パチパチパチという拍手で終わるのではなく、誰かが「じゃ、進化は、なぜおこるの?」、「成長と進化とはどう関係しているの?」という、ある意味、とんでもない質問をどんどん出したらいいのではないかな、と考えています。