【コーディネーター通信】野中至:三年生の「How we express ourselves」

 「私たちが私たちを表現する」といっても、いろんな表現があるものです。私たちは、「表現」というと、なぜか文学的なものや芸実的なものを考えてしまうんですが。

 

 

 「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空から変わってくるだろう。」「富士山は3776メートルある。その山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である。」(新田次郎『扶養の人』より)

 

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野中 至の言葉です。野中 到は、明治時代の気象学者。妻の千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みました。

 

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陸軍との困難を極めた折衝や資金集めは言うに及ばず、たいへん厳しい冬の富士山頂での生活。

夫婦は互いに支えあい観測を続けますが、高山病と栄養失調でついに動けなくなり、助け出されました。よっぽど強い倫理的な動機と科学的な確信がなかったならば、こんなこと、できるはずがありません。

 

十分な観測結果は得られなかったものの、夫婦の決死の努力は感動を呼び、その後の富士山気象観測への道を開き、野中夫妻の偉業は中央気象台に引き継がれました。

 

 野中は、医師を目指して大学予備門(今の東大教養部)に入学しましたが、自ら人々に役立つ道を求めて中退し、気象学者を目指しています。しかし、いくら気象に対する知識があるからといって、それだけでは、資材を投げ打つという献身や、厳寒期の富士山頂での長期観測という決死の努力をやってのけられるものではありません。野中夫妻の自己表現とはこのようなものでした。

 

天才的な物理学者のエンリコ・フェルミや、数学者のジョン・フォン・ノイマンらは、アメリカ合衆国原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画でも中心的な役割を演じ、1944年にロスアラモス国立研究所のアドバイザーとなったり(フェルミ)、戦略ミサイルの開発にかかわります(ノイマン)。ノイマンの自己表現は「戦略核ミサイル」なのでしょうかね。因みにフェルミは水爆の開発に対しては反対を表明しました。科学者としての見識と倫理的なものが一つになったのでしょうね。

これは、フェルミの自己表現です。

 

これにたいして、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言を受けて、1957年7月 7日、カナダのパグウォッシュに湯川秀樹博士、朝永振一郎博士、マックス・ボルン博士、フレデリック・ジョリオ・キュリーら22名の科学者が集まり、全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議であるパグウォシュ会議が開かれました。日本パグウォッシュ会議は現在でも続いています。

 

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これも、科学者たちの自己表現の一つです。

 

 どこに、決定的な違いがあったんでしょうか。

 

 そこには、科学的な知識とそれに対する強い確信だけではなく、さらに別の、倫理的な動機があったんですね。「自分のため」だけではなく「ひとびとのため」という倫理的な動機があったんでしょう。しかも、それはたいへんパワフルな確信にまで昇華されていたんでしょう。そして、それが行動という形の自己表現になったんでしょうな。

 

 理系の知識だけでは、不十分なのでしょうね。メアリー・シェリー婦人が『フランケンシュタイン』を書いたのは、1818年。今から200年近く前です。『フランケンシュタイン』には、『現代のプロメティウス』という副題がついています。すでにこのころから、「科学」は、一面では新しい可能性を人間に与えるけれど、他面では不幸に導く「諸刃の刃」であることの警鐘が鳴らされていたんですね。

 

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私たちは、野中至やパグウォッシュ会議に集まった科学者の心性とともに、ノイマン博士のような心性も持つ可能性を持っているということでしょうね。両方の可能性を持っているならば、「科学」だけを学ぶというのは実に片手落ちだということになります。

 

つまり、科学だけでなく、歴史も、地理も、人々についても、社会科や文学、図工、音楽などを通して学ばなければいけないということなんです。「教科の枠を超えた探究」とは、こういう意味を持っているんです。

 

 19世紀の終わりころまで、自然科学は「万能」でした。自然科学が人類に幸福をもたらすと素朴に信じられていましたし、自然科学以外の学問は、自然科学の方法をモデルにして発展しました。画家のモネやターナー蒸気機関車を絵画作品にしました。たぶん蒸気機関は時代を引っ張っていく科学技術の象徴のように思われたんでしょうね。電気や交通機関の発達によって豊かになった人々(もちろんホンの一部の人々ですが)は、スーラの描くように着飾って公園を散歩するようになりました。

 

クロード・モネ 

 

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ジョルジュ・スーラ

 

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ところが、19世紀の後半ごろから、恐慌が起こり、人間の疎外が問題になりはじめると、科学に代表される「知」のあり方に、さまざまな批判と検討が加えられ始めました。「価値」の問題であったり、「実証主義的な知」に対して「構成主義的な知」を対置する試み、「科学」の「根拠付け」を行う試みだったり、画一化しない「人間のありかた」の探究だったり、さらに対象を広げ、そもそも「存在」とはどんなものかということを解明する「試み」だったりと。

 

ちょっと考えてみれば分かることですが、現在は情報・通信技術(ICT)や人工頭脳が人間に幸福をもたらすと思われているようです。その点で、現代は19世紀の後期から20世紀の前期の様相に酷似していますよね。

 

 「歴史は2度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という箴言があります。19世紀から20世紀前半の「実証主義」で行き着いたところは、いいところもあったけれど、全体としてはあまりいいところとは言えなかったようですね。しかし、そうは言っても着実に進歩はしているのでしょうが。

 

ならば、未来に生きる子どもたちが、現在の情報・通信技術(ICT)や人工頭脳によって人間に幸福をもたらすためには、科学だけではなく、歴史、地理、文学、芸術、音楽などにしっかりと根ざした知を構築していかなければならないということです。

 

人間として大事なことをこの探究の単元でどう学んでいくか、文学はそのようなメッセージの点検的な表現です。文学に限りません。絵画もそうです。音楽もそうです。科学だってそうです。文学や絵画、音楽や科学などを通して、人間として大事なこと、人間にとって大事なことを探究していく過程は、同時に、私たちが、人間にとって大事なことを表現する、その方法も学び取ることです。その方法は、単に「作品」を作ることだけではなく、態度や行動にも表すことです。

 

この探究で、三年生たちが、10の学習者像に向かい、どういう三年生らしさを表現するようになるか、楽しみにしているところです。